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車の思い出

 今までメインで使っていた東芝ノートパソコンがおかしくなり、秋に富士通のFMVを買った。ウィンドウズVISTAになれるなら、シーズンオフ中がいいと言われていたから。
 無事に使いこなせるようになると、東芝ノートがすねてしまったのか、それまでだましだまし使っていたのに、まったく起動しなくなってしまった。
 いよいよ寿命かと思い、しばらく放置していた。が、修理屋で見積もってもらったところ、内部でケーブルがはずれていたとか。10ドルで完璧になおった。ラッキー。

 楽天をやめてココログに引っ越したのは、一人で3つまでブログをもてるし(有料)、1冊単位で自費出版ができると知ったから。
 過去の原稿やブログを整理して抜粋し、とくに家族の成長記録は別な場所で少しずつまとめて、本という形で残しておこうと思っている。
 メールマガジンも過去の原稿を整理して再録しておきたい、という目的も含んでいるので、バックナンバーという形ではネット上におかないかも。この点は少し迷っているところ。

 さて、それでどうでもいいことだが、原稿を読み返していたら過去の男ではなく、過去の車についてふと思い出された。アメリカでは車なんて単なる足。
 アメリカの3大大手自動車メーカーが経営破たんしていて、自家用ジェットや列車でワシントンに行き、せっせと政府に援助を働きかけているのは既報されているとおり。
 しかし、正直いって多額の資金を税金から回したところで、立ち直れるのかどうか?アメ車はレンタカーでは何度か乗っているけど、自分で買う気にはなれない。アメリカ人の友だちだって、お金もちとかスケートのコーチはBMWとかキャデラックとかポルシェにこだわり、フォードとかオートモービルに乗っている人はみかけない。
 僻地を深夜一人で移動しているとき、車がとらぶったりすると、取材のスケジュールは狂うし、場所が場所だったら命だって危ないいもの。
 
 これを活字にするのは非常に危険なことだと理解しているから、さすがに英文で書く勇気はないのだが、事実なのだから仕方がない。
 セシル・フィルダーがホームラン記録をぬりかえていた頃、デトロイトにはしょっちゅう取材に行った。NBAでも行ったし、木田投手や野茂投手も在籍した時期がある。
 古いタイガースタジアムはダウンタウンにあり、ほんの数百メートルはなれた安ホテルに泊まっていた。トコトコ歩いて球場を往復すると、ホテルの人やいろいろな人から「一人歩きは危ない」と注意された。かといって、タクシーやレンタカーで往復するような距離ではないし、あの頃は今と同じで取材費が乏しかった。
 野茂がデビューするまで、「大リーグなんて取材しても金にならんよ」といつも言われていたもの。
 だから、テレビのコーディネイターをやったり、JALの機内誌とか、いろいろなことをやり、行く先々で大リーグを取材していたのだ。

 さて、デトロイトはフォードをはじめとした車の町。当時は日本車のせいで傾き、目抜き通りも空き家ばかりでか、かなり廃れた雰囲気だった。日の丸を燃やしたり、日本車をこわして、燃やすイベントもしょっちゅう行われていた。
 日本からきた駐在員一家もあの頃はアメ車に気をつかい、2台もつのなら一台はフォードにしたりするのが普通だった。
 1990年前半は車の保険屋さんから、「スバルと三菱は保険料がどうしても高くついちゃうんです。戦争のときゼロ戦をつくっていた会社だから、差別されているんですよ」
 なんて言われたりもした。今はそんなことはないらしいけど。

 日本でのファーストカーはホンダのアコード。私名義だったが、これは父の車。たしか「勝利投手」がベストセラーになった年、うちに来た。父は雨の日には乗らないぐらい大事にしていて、メーターはいまでも2万キロ台。「人生ではじめての新車」なんだとか。今でも実家にある。健在なり。

 もう一台は軽自動車でホンダのトゥディ。これはよく使った。山口県の実家「梅田商会」がたしかホンダ関係だったから、あまり何も考えず、ホンダにしていたのだと思う。高校と短大のときの愛車もホンダ・タクトだった。
 日本はアメリカ違って車検があるから維持費が大変。アメリカを拠点にするようになり、妹が乗っていたが、その後で廃車にした。

 シカゴではリグレーフィールドの近くに住んでいたから、最初の1年半は車なしの生活。車がいるときはオダちゃんに頼んだりしていたから、夫より、もちろんヨッシーより長い付き合いなんだな。
 結婚したとき夫が所有していたのがボストンで買った中古のスバルだった。たしか1500ドルと聞いた。車体はボロボロで、雨もりもすごかった。「たまにはワックスもぬったら?」と言ったら、窓ガラスにもワックスをぬっていた。「やっぱり社長の息子ってのは、庶民とは感覚が違う?」と感じたのは、あの一瞬だけ。他の面ではバリバリの庶民だった。
 当時のアメリカは景気がドン底で、町中もそんな車ばかりが走っていて、めだたなかった。
 これは後に某ギタリストにあげた。数か月はもったみたい。

 次に帰国する学生から3000ドルで譲り受けたのがボルボ。これはエンジンはさすがに頑丈で、よくもった。ただし、ボディの真ん中に銃跡みたいな丸い傷があったし、冷房がついていなかった。窓をあけて走るようにしていたが、赤ちゃんだった長女は信号待ちになると、うわーんと泣いた。暑かったのだろう。でも、あの頃の私はダイエットしなくても、やせていた。(遠い目)

 夫婦ではじめて新車を買ったのはプリモスのボエイジャー。10件ぐらいのディーラーをまわり、ミニバンの中ではいちばん安かったのだ。たしか1万5000ドルぐらい。日本車はだいたい3000ドルぐらいアメ車より高かった。それでも修理の回数を考えたら、日本車のほうがとくだと気がつかせてくれた。10万マイルをこえたら、道の真ん中で、すーとよくエンジンがとまるようになり、困った。
 修理やにもっていっても「どこも悪くない」と言われるし。
 
 次に買ったのが、ホンダのCR-V。これは見栄えも中身も最高にすばらしかった。価格もお手頃。シカゴではホンダのオデュッセイが人気あるみたい。
ただし、ホンダとトヨタは自分ところの車に、自信とプライドをもっているから、せいぜい500ドルぐらいしか値引きしない、

 ボルボも10万マイルをこえ、修理費がかさむようになったから、某日本人学生にあげてしまった。
 一般にアメリカでは10万マイルをこえたら年間2000ドルまでメインテナンス料がかかると言われている。日本車だとこれが15万マイルこえるまで大丈夫、とも。
 ツインズのカービー・パケットもそう言っていた。彼は大リーグで成功する前、シカゴで中古車の修理ショップで働いていたから、値引きのコツとかよく知っていた。

 ボエイジャーをホンダにもっていったら500ドルで下取り、トヨタは1500ドルと言ってくれた。「アイチというところで組み立てた車だ」という言葉にひかれ、トヨタのエコーを買った。日本ではヴィッツという名前らしい。
 人生ではじめて車のローンがおりた。自由業ってなかなか人間扱いされないから。
 ローンは終わったけど、エコーはまだ健在なり。

 ホンダCR-Vも10万キロをこえた頃、雪の日に夫がぶつけられた。向こうから保険金が支払われたので、中古のマツダMPVを購入。健在なり。

日本のトゥディは廃車にしたが、ダイハツのエッセはもっている。日本は車検があるから、維持が大変だわ。軽自動車のほうがいいね。


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